その35 クリストファ・N・野澤さんのこと

その35 クリストファ・N・野澤さんのこと

こちらのエッセイは、2014年10月に執筆した、クリストファ・N・野澤さんへの追悼文です。

野澤さんには、中学生の頃に知り合い、晩年まで大変お世話になりました。

私の外部ブログ「英国紅茶を飲みながら」に掲載していたものですが、ブログのサイトを終了することとなったため(2022年12月末現在、まだ閲覧は可能ですが)、こちらのページに移動させることにしました。

何年もの時間が経ってしまいましたが、野澤さんのご自宅で沢山のSPレコードを聴かせていただいた時の感動や情景は、昨日のことのように思い出すことができます。

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私が クリストファ・N・野澤さんという、どこの国の人なのかわからないような名前の人に初めて会ったのは、中学生の頃でした。

かつて中野駅の北口の方に輸入CDの専門店があり、私の母が時々その店を利用していたところ、そこのオーナーが「クラシック音楽のSP録音とかに興味があるんだったら、近くに住んでるいい人を紹介するよ」と言って紹介してくれたのが・・・その、なんとか野澤さん、という人なのでした。

もちろん母自身がSP時代の録音に興味があったわけですが、それに加え「娘の音楽教育のために、SP時代のヴァイオリニスト達の演奏を聴かせたい」というおまけもあったわけです。

私はといえば、始めはSPというものが何なのかもよく知らないままでしたが、「なんか、SPレコードを沢山持ってる人がいるんだって」という興奮した母の言葉に押されてお手紙を書いてみますと、その「野澤さん」は丁寧なお返事をくださって、当時私が勉強していた曲の入ったカセットテープ(CDではなく!)を進呈してくれました。SPレコードからカセットにダビングしたもの、です。

初めて聴いたSP時代の音源。そのカセットから聴こえてくる音には、雑音がシャーシャーと入り、実際の音楽はその雑音のカーテンの向こうから聴こえてくる。でも、その雑音の向こうの音は、なんとも言えない艶かしい音でした。

「へーぇ、こんな時代の音が、聴けるんだねぇ」 

特に「すごい!感動した!」とかいうよりは、珍しいものだなぁ、なんて、ぼけっとした感想でした。

しかしその後、野澤さんとの文通が繰り返され、私達母子は「野澤さん」に会いに行くことになります。

お家は、昭和の香りがぷんぷんするアパートの1階の隅にあり、洞窟のような廊下から家の中に入ると、とりあえず中は真っ暗、左右から崩れ落ちてきそうな資料、資料資料・・・。その間の細~い空間を、やっとの思いで通り抜けて行き、応接間(兼仕事場、兼・・・その他全部?)に辿り着きます。ソファーはスプリングが出っ張ってきていて、座るとお尻が痛いのですが、そこに横並び・つめつめに座るのでした(定員、野澤さんを含めて3人)。

部屋の奥には、立派な蓄音機がこの家の主のように鎮座し、周りには小さな蓄音機やら、その他色々な機器、テレビなどが所狭しと置かれ、両側の壁には床から天井までまた資料資料資料・・・。多くが、貴重なSPレコードでした。

野澤さんは、世界でも数えるほどの、SPレコードの収集家で、その世界では大変有名な方でした。

お父様の代から大変な音楽好きだったそうで、ご自身、小さい頃にはヴァイオリンを習っておられたり、子供の頃からヨーロッパの演奏家達の生演奏に触れながら育ったとのこと。ちなみに、「クリストファ」は洗礼名で、生粋の日本人です。

ただ集めて聴くだけでなく、演奏家のこと、レコードの歴史、時代背景など、あらゆる面からSPレコードに関連することをに精通しており、「日本における洋楽史」の研究をライフワークとされていました。(しかし本職は英語と生物学の教師。定年まで勤めあげています)

そして、その知識と音の財産を、若い学生達の役に立てたいという想い、それを私はずっと有難く享受していくこととなったのです。

中学生~高校生~大学生と成長する過程で、私は年に何度か野澤さんの家を訪ね、昔の巨匠達の色々なお話や、SPレコードをたくさん聴かせていただきました。始めいつも母と一緒に、後には一人で。

たいてい、その時々に勉強している曲を言うと、その曲のレコードを聴かせてくれるのですが、それだけに留まらず、色々なことを教えていただきました。そして、訊ねた時に蓄音機をかけてくださるだけでなく、必ずダビングしてくれたので、我が家にはカセットテープ、後にはMDのコレクションが出来ています。

同じ音源でも、テープやMDにダビングされたものと、実物のSPレコードを蓄音機にかけた時では、音はまったく違います。蓄音機・・・それはクレデンザという蓄音機の最高峰だったらしいのですが・・・から出てくる音は、まるでその機械の中に人が入って弾いているのではと思うほどの、手に感触を伝わってくるほどのもの。昔々の人の演奏がそんなに身近に感じられるなんて・・・まるで異空間に入ったような気分になるのでした。

その「音」には毎回引き込まれ、まるで空間が溶けてしまうのではないかとさえ感じながら身をゆだねていた私。

しかし、数々の巨匠達の「演奏」自体には、なかなか魅力を見出すことが出来なかったのでした。

たとえばミッシャ・エルマンであったり、たとえばハイフェッツであったり、ジムバリスト、コーガン…20世紀前半の巨匠達を聴きながら野澤さんは「ね、上手いでしょ~う?(「こんなに上手い演奏家は現代にはもういない」という意味を込めて)と言うのです。

でも私は「はい」と短い返事をしながら(私は無口で大人しく、大人と「お喋り」が出来ない子供だった)も、「アンネ・ソフィー・ムッターとか、その他多数の・・・実際にコンサートで聴ける現代の演奏家達よりも、このレコードの人達の方が上手い」という概念が理解できず。

だって例えばね・・・エルマンの真似をして私が弾いてみたら、きっと笑われますよ?レッスンでも注意されるし・・・「そのグリッサンドは何?」とか「テンポ通り弾きなさい」とか「ヘンな抑揚つけないで」とか。試験で良い点は取れないでしょう・・・。と、内心ずっと、ずーっと、ずーーーっっっと、思っていた訳です。

それから例えば、音程だって。蓄音機から出る独特の音色が、そんな風にも聞こえるのかもしれませんが、音程、なんか、ちょっとズレてない?私の感覚で「良い音程」っていうのとは、ちょっと違う気が、いつもしていました。(→結局それが、「現代の音程感覚」というものかもしれません)

でもとにかく、野澤さんは私をとても可愛がってくれました。

ただ、流暢な話し方をする方ではありませんでしたので・・・そう、なかなか話がスムーズに続かないことも多く。

昔は私も大変無口で・・・そりゃあ人様のお家にお邪魔するわけですから一生懸命「お話ししなきゃ」と頑張って、そのせいでものすごく緊張していたものですが・・・そんな私と野澤さんのコンビ、お互いにとても辛かったようです(笑)。レコードを聴かせてもらうというメインの目的よりも、そちらの方で本当に気疲れしてしまうのでした。

それでもお手紙で「今こんな曲を勉強しています」と書けば何かしら音源を見繕って送ってくれるし、その感想をお手紙すればまたお返事をくださり、「またお遊びにいらしてください。何か(実際に蓄音機で)お聴かせしますよ」と書いてくださるので、また、緊張しながら出掛けてゆくのです。

自分が演奏した録音も、いつも送って聴いていただいていました。

それについてとやかく言われることなどは全くなく、私の成長を静かに静かに見守ってくださっていたものです。

大人になるにつれ、「上手いでしょう?」と言う野澤さんの言葉も理解出来るようになり、私と野澤さんも、話が続くようになりました。

が、逆にだんだん、野澤さんを訪ねる余裕が日常から減ってゆき、2年に1度くらいしか「お遊びに」行くことがなくなっていきました。そうすると逆に、訊ねて行った時は本当に嬉しそうに迎えてくださり、何時間も話が止まらなかったものです。

いつになっても、音源や資料を探したり、分からない事があったらすぐに教えてくれました。母は母で、お付き合いがずっと続いていました。

SP時代の録音は、今では復興版CDとして出ているものがたくさんありますが、蓄音機の中に本当にエルマンやハイフェッツ、クライスラーがいるような気分、半分タイムスリップ出来たみたいな気分にさせてくれたあの空間は、特別なものでした。

昔の巨匠達の演奏を聴くこと、その時代に想いを馳せること・・・始めはそれほど興味がなかったことですが、時間とともに私の中に蓄積されていき、現代の生演奏からは得られない音楽世界に触れることが出来たのは、私にとってかけがえのない財産です。

将来それは、私の言語となって、演奏に表現されていくのだろうと。私の音楽の根底に流れるものに、多大な影響を与えてくれたSPレコードの演奏家たち、そして野澤さん。

ある時、数ヶ月ぶりに野澤さんに電話をしてみたら、出なかった。

その後、2回くらいかけ直しても、出なかった。

野澤さんの生活パターンは大体わかっていたので(一人暮らしの老人ですから)、こんなに電話に出ないのはおかしいね・・・と、家で話していたところでした。

夏の暑い日に倒れ、病院に運ばれ、すでに帰らぬ人となっていたのです。

あれからすでに1年以上が経ちます。

野澤さんの想い出を書き留めておこう、と思いながらも、日が経ってしまいました。

今年の2月には「偲ぶ会」が催され、演奏家の古澤巌さん、中道郁代さんを含め、色々な方面で野澤さんにお世話になった方々が集いました。(その時の「追悼文集」寄稿に間に合わなかったこと、お詫び申し上げます)

集まった殆どの方は「野澤先生」と呼ばれていましたね。

でも私にとっては、中学生の時に出合ったおじいちゃん。「先生」とはいいません。

もう、人々の記憶の中にしかいない「野澤さんの部屋」。

そこにいつも ちょこん と座っていた「パフィー」という猫のぬいぐるみ。

思い出が、私の人生の一部が、遠くに行ってしまったようで。

さようならも言えなかったことが、悲しくて寂しい。

だから野澤さんは、いつまでも私の中で生き続けます。

これからもずっと、私を見守ってください。

また会う日まで・・・。

※野澤さんの詳しい経歴については、こちら→ http://kyoshotei.blog.fc2.com/blog-entry-1415.html

※野澤さんの所有していた膨大なSPレコードのコレクション他、資料等は、東京藝術大学が引き取りましたが、公開の目立はまだたっていないようです。どれだけ時間がかかっても、整理、公開していく方向に動いてほしいと、願うばかりです。

東京藝術大学附属図書館ブログより→ http://geidailib.tumblr.com/post/88556512038/n

2014年10月

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