その61 「バッハの無伴奏」そして「小林倫子のバッハ」へ

その61 「バッハの無伴奏」そして「小林倫子のバッハ」へ

ヨハン・セバスティアン・バッハ。1680〜1750
音楽史で言うと「バロック時代」の後期に生きた、大作曲家です。

日本では「音楽の父」とも呼ばれますね。小学校の音楽室に必ず肖像画がある作曲家、と言うと、誰もが「あー」と思う存在であり、実際、コアなファンも相当数いるという、大の人気者です。

先日行ったリサイタル(2023年11月26日、東京オペラシティ リサイタルホール)では、バッハ作曲の「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第2番」を演奏しました。

曲を知っている人の間では、「無伴奏バッハ」「バッハの無伴奏」などと、よく呼ばれます。

「無伴奏バッハ」とは?

バッハは、無伴奏ヴァイオリンのために、計6曲を作曲しました。

内訳は、「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ」が3曲と、「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ」が3曲です。

ところで、「無伴奏ヴァイオリン」とは、

伴奏無しで、ヴァイオリンのみで演奏する形態のことを言います。「ヴァイオリンのソロ(独奏)」ということですが、わざわざ「無伴奏」という単語を付けて言うのには、わけがあります。

ヴァイオリンというのは、現在でもそうですが、バッハの時代は今よりも一層「他の楽器と一緒に演奏する」という事の方が多い楽器でした。

それに対しての「無伴奏」なのですね。

バッハは、生涯に1千曲以上を作曲しましたが、その中で「無伴奏ヴァイオリン」のための曲は6曲のみ。特別感が伝わりますでしょうか?

その「6曲」の曲集は、ものすごく完成度が高く、聴く人にとっても、弾く人にとっても、一度虜になると抜け出せない、至高の楽曲達です。 

ヴァイオリニストにとっては、この「6曲」は、学生の頃から何度も何度も学習する、させられる、ものでもあります。

力量を図るのにちょうど良い材料でもあるため、コンクールや試験の課題になることが多いので、その時点で辟易してしまう人もいる一方で、バッハに「ハマった」人達は、プロになってからも好んでバッハを弾き続けます。私もそうです。

バッハの無伴奏とは、ヴァイオリニストにとっては旧約聖書のようなもの、とよく言われます。

生涯にわたって、勉強し続けなければいけない作品…言い方を替えると「側にいる存在」であり、「バッハと向き合うことは自分と向き合うこと」というような感覚でもあります。

「人を映す鏡」

さて、私は、学生時代には試験やコンクールでも何度も弾いてきて、大人になってからも何度となく演奏してきました。

「バッハは、弾く人を映す鏡」と、よく言われます。

学生時代のバッハ、大人になってからのバッハ、人生経験を積んだ時のバッハ、困難を乗り越えた時のバッハ、迷える時期のバッハ、人生を振り返るようなバッハ・・・

人それぞれのバッハがあるのと同時に、1人の人が弾くバッハも、歳月を経て変わっていくものです。

もちろん、バッハだけでなく、他の作曲家の他の楽曲についても全く同じ事が言えるはず。「演奏」というもの自体が「人を映す」ものですから。

それなのに何故、「バッハの無伴奏」は、特に「鏡」と言われることが多いのか。そして、ヴァイオリニスト達は(私も含め)、なぜ「特別」と感じてしまうのでしょうか。

そこにはやはり、ヴァイオリンという楽器の特性が関係していると思います。

「無伴奏」というワード

先程も書きましたが、ヴァイオリンは、たった1人で演奏するよりも、他の楽器と一緒に複数人で演奏する機会の方が多い楽器です。

ヴァイオリン学習者が勉強するレパートリーは、習い始めから音大生に至るまで、ほとんどが伴奏付きの曲です。なので、試験やコンクールの時にも、伴奏一緒に演奏をします。ですから、小さい頃から常に「伴奏と一緒に弾く」ことが基本です。

一方、ピアノ学習者の場合は、殆どの場合(特に初めは)、レパートリーの殆どが、1人で演奏するソロ曲になります。ですから、試験でもコンクールでも常に1人で弾くのです。

ピアニストの場合、勉強が進む過程で「私は1人で弾くよりも、人と一緒に演奏する方が好きだ」となったら、レパートリーをシフトしていく…という選択をしていきます。基本がソロで、次第にアンサンブルを経験していく、という場合が圧倒的に多いのではないでしょうか。(少なくとも日本では)

ヴァイオリンの場合は、そもそも「ソロ(無伴奏)」のレパートリーが少ないので、「私は1人で弾く方が好き」と言ったとしても、それだけで演奏活動をしていくのはほぼ不可能。ヴァイオリニストは、やはり「1人で弾く」よりも「一緒に弾く」機会が多いということになります。

だからこそ「ソロ」と言えばよいところを、わざわざ「無伴奏」というワードが出来たのでしょうか。

英語では、普通は「solo violin」と言いますが、丁寧に言う場合は「Unaccompanied」 というワードも使います。solo violin と言った場合は、「1人で弾く」の他に「協奏曲のソリスト」という意味もありますから、使い分けが必要な時があります。

音符の数

ピアノのソロと、ヴァイオリンの「無伴奏」で明らかに違うのは、音(音符)の数でしょう。

ピアノは、同時に10個の音が鳴らせるのに対し、ヴァイオリンは4つしか出せません。

基本的にヴァイオリンは「単旋律」(=単体の音が連なってメロディーを形成する。旋律=メロディー)を弾く楽器です。メロディーには、伴奏が必要です(伴奏があった方が、聴く人も弾く人も喜びます)。

ピアニストは、メロディーと伴奏を1人で両方弾けますが、ヴァイオリンの場合は、普通は手分けして(数人で)弾きます。

でも「無伴奏」となると、1人しかいませんので、1人で「メロディー+出来る限りの伴奏」の両方を担うことになります(曲が、そのように出来ている)。

ということは、単音ではなく、和音を沢山弾かなければならない事になり、

結果的に、技術的に難しいものが多くなります。(無伴奏ではなくても、もっと難しい曲も、勿論ありますが) 

そうやって苦労して、音の数を増やしたとしても、音量も音符の数も、結局はピアノには及ばないので、ヴァイオリンの「無伴奏」は、大きな音量が求められる場には不向き、という欠点もあります。

静寂

さて、そんな「無伴奏」のバッハ、

音の響くホールで演奏すると、小さなヴァイオリンの音が大きくホール内に響き渡り、包まれる感覚を味わえます。至極の空間。

そのような空間では、「静寂」も音楽の一部となります。

第一音が始まる前の静寂から、最後の一音が消える瞬間まで、すべてを構成する集中力が必要。

ピアノや他の楽器と一緒にアンサンブルする場合には、いかに奏者同士でコミュニケーションを取りながら弾くか、ということにより集中し、そこが楽しいものです。自分が間違えそうになっても、他の人が助けてくれる事もあります。

しかし無伴奏では「自分」しかいなくて、他人に影響される心配がない反面、誰も助けてくれず、どこまでも自分との戦いとなります。

1人で、音楽と楽器と、静寂に向き合う…

ピアニストにとっては普通の事かもしれませんが、ヴァイオリニストにとっては、自由な反面、けっこう恐怖なんです。

そんな恐怖も乗り越えて、1人で、最初の静寂から最後の響きの終わりまでを創り上げる…これは醍醐味でもあり、物凄くやり甲斐があります。そして、その作業に立ち向かうために、沢山のエネルギーと集中力を注ぎます。

そんな風だから、特別感とともに「鏡」と表現されるのでしょう。

自分は、どこまでいっても自分

私は、中学生の頃からすでに、「バッハが好き」と思って練習していました。

弾いていて心地よい、自分が感じた音楽が素直に表現できる、そして、「それが聴き手に伝わっている感覚」が持てたのだと思います。

しかし、いつもバッハを好んで弾いていた私は、ある時、ふと不安にかられました。

「私は、これ以上バッハを上手く弾けるようにはならないのではないか」

「私は私以上のものにはなれないのだから、私のバッハも、これ以上良い音楽にはならないのでは?」

「いつまでも、同じように弾いていて良いのか?」

「私のバッハをまた聴きたいと思ってくれる人は、果たしているのだろうか?」

「何度弾いても、大して変わり映えしない・・・」

だいぶネガティブですね。スランプ気味だったのでしょうか。

しばらくバッハから距離を置いていたら、その後、コロナがやってきました。

バッハどころか、人前で演奏をする機会そのものが無くなり・・・

そして私はその頃、絶賛リハビリ中でもありました。(特別エッセイ参照)

リハビリで使用した曲の一つ目は、実はバッハです。

「まず、バッハを人前で弾けるコンディションまで回復する」を、第一の目標としていました。

そして、復帰後初めてのリサイタル(2021年)では、無伴奏パルティータの第2番、

そして今年、無伴奏ソナタ第2番を演奏しました。

結局、「自分」はどこまで行っても「自分」でしかないので、それにうんざりしたり、迷ったり自信を失くしたり、暗闇の中に迷い込んでしまうこともあるのです。

スランプ気味になり、一時的に弾かなくなってしまっても、戻ってみたら、改めて世界が広がった…

今は、そんな風に感じています。

全曲演奏会

バッハの無伴奏全6曲を、一回のコンサートで全部弾く、という「無伴奏バッハ 全曲演奏会」をされる演奏家が、時々いらっしゃいます。(私もやった事があります)

全6曲をすべて弾くということは、通常のコンサートの時間枠には収まりません。

2曲ずつ、休憩を挟みながら弾くと、合計3時間を越します。弾く側も聴く側も、相当なエネルギーが必要です。

人生の節目に行う方もいらっしゃいますし、毎年なさっている方も、います。

私は、まだ一度しか経験がありません。

演奏家は何故「◯◯◯全曲演奏会」というものをやりたがるのか。

しばし議論になるトピックですが、

それはきっと、お客様のためというよりも、演奏家・音楽家として、作曲家や作品と真剣に向き合い、理解を深めるだけでなく、自分とも向き合い、自己を限界まで追求する…というような、哲学的な想いがあるような気がします。

「小林倫子のバッハ」へ

このタイトルは、ここ10年くらいずっと、私の夢でした。

「私のバッハを聴け」というような、偉そうな意味ではありません。自分のバッハに自信があるという訳でもありません。

あくまでも、等身大の私。

バッハで等身大の自分を晒すのは、正直怖いです。でも逆に、「成長し続けなければ」「自分はもっと成長出来るはず…」という、自分で自分の背中を押し鼓舞するような気持ちです。

いつかこのタイトルを使いたい…と思いつつ、なかなか口に出す勇気がありませんでしたが、

本年、リサイタルのプログラムの中で、「これからの予定」として初めて、この構想を文字化して公表しました。ドキドキ。

でも公表したものの、いつ行うのか、どういう形で始めるのか(全曲弾くのか?半分弾くのか?)、実はまだ決まっていません(汗)。でも、そろそろ、やるタイミングかな、と思うのです。

今から準備をするので、実現までにはあと1年くらいはかかるかもしれませんが、必ず形にしたいと思います。

大事にしたいこと

「小林倫子のバッハ」で大事にしたいこと。それは、

「その日、その時にしか弾けない(聴けない)、私のバッハ」

お客様は、「上手なバッハ」を聴きに来たいわけではないのだと思うのです。

「上手なバッハ」なら、他でも聴けますし、生演奏でなくたっていい。

でも、生で、「ここでしか聴けないもの」をお聴きいただくことが、来てくださった方々に対して、私が一番すべきことなのではないかと…

これに改めて気付いたのが、2023年秋でした。

その為には、その瞬間まで、諦めずに成長し続けること。

唯一無二のバッハを、皆さんと共有できる日に向けて…。

演奏会の具体的なお日にちを、早くお知らせ出来るよう、頑張って準備を進めて参りたいと思います。

どうぞ宜しくお願いいたすます。

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